生きるということ -- 資本主義の原理とその虚しさ

父が入院した。

以前から、胃腸の調子がよろしくなかったらしく、しかしそれを放置していたらひどくなった。いよいよ我慢できなくて外科にかけつけたところ、「なんで、こんなになるまでほっておいたのだと」としかられたという。

そう日をおかずに外科手術することになった。本人は相当の緊張なのではなかったかと思う。そもそも麻酔というものがおそろしい。意識を強制的に奪うという激烈な効果を生むものであり、その仕組みもまったくわからない。そのようにしてねむっている間にお腹を切られるのであるから。

手術後はICUに入り、数日後には予定通りに病室に戻った。「痛い、痛い」とお腹に手を当てながらも、自力で動けるようになり、一階にある新聞の自動販売機まで歩いて、新聞を買えるようになった。

お金をお財布からだして、自動販売機に入れる。好みの新聞を選んでいボタンをおす。すると新聞が受け取り口にでてくる。このときはたと気がついてしまった。人間の営みって結局これだけのことなのではないかと。いやお金をかせぐフェイズがまったく欠落しているから、これが全てというよりは半分程度なのかもしれないが、お金を費やして利便性を得るということが、生きることの大部分をなしているのではないか。

そう考えるととてもむなしくなってしまった。消費をして時間をつぶすことが人生であると言われているようなきがしたからだ。資本主義社会に組み込まれているかぎり、そのシステムの一部でありつづける限り、この掟からのがれられないのだろうか。

人間の生きる意味を消費の中にとじこめるのだとしたら、やはり資本主義ってよくないのではないかと思う。別に経済が縮小しようともいいのではないかと思う。無理せずにしずかにシュリンクしながら、それでも一定の医療と福祉を保つ、そういう世の中であってほしい。