mac os x を「かな入力」で使っているとトラブルがおきる。

PCで日本語を入力するとき、キートップにかかれているカナのとおりに入力する「かな入力」と、ローマ字カナ変換を行い入力する方法とがある。

調べたことはないが、どちらかといえば多くの人がローマ字カナ変換を用いているらしい。その理由は、「かな入力」の場合、アルファベットとは別にカナ文字のキー配列を覚えなければならず、かつホームポジションから遠い位置にあるキーを打鍵する機会が必然的に増えてしまうからであろう。

そんなこんなで「カナ入力」はどうにも冷遇を受けている。特にMac OSの場合、カナ入力設定時にのみ発生するバグがある。そしてそれらは長年放置されている。

純正ソフトのsafariでは、command + 「+」、command + 1 などのショートカットが、きかない。このバグは一時期解消されていたが、OSのアップデートに伴い復活した。アップルでは、ソフトウェアの品質管理を行っていないらしい。

バグの一つはマイクロソフトワードに関するもので、「かな入力」設定にして、日本語入力モード時に起動すると、一部のショートカットが使えないという奇妙なバグである。英字入力モードのときにはこの不具合は生じない。またローマ字カナ変換の設定にしておけば発生しないという。

このバグはもう何年も放置されている。ある時期まではオプションキーを押しながらワードを起動すれば、不具合を回避できた。OSのアップデートに伴い、最近では、この手もきかなくなった。

 

ホイッスラー展

ホイッスラー展をみにいった。横浜美術館にいくのははじめてだった。率直に言うと、あまりおもしろくなかった。みもふたもないけど。

美術の展覧会というものは、ある程度の規模になってくるとたいていはなんらかの解釈をともなって、セクション別けした展示がなされる。展示数が多いときこのストーリづけはわりと簡単であり、年代別にならべていけばそれでよい。作者が興味をもつモチーフも技法も徐々にかわっていくものであるから、破綻をおこさない。

しかし、作品数がいまひとつあつまらなかったという場合には、年代別にならべるとどこかにスポッと穴があいたりして、寂しく辻褄のあわない展示になってしまう。そこで、なんらかの解釈を一生懸命考えて、章立てをしたりするのだが、もともと作品数がたりないのだから、結局うまくいかない。散漫とした展示になってしまう。

そういうった意味で横浜美術館の規模の展覧会は難しいのかなと思う。より規模が小さければ、ポイトンとをしぼった小規模な展示で成立するし、より規模が大きな東京都美術館の規模になれば、お金をもっとかけた重厚な企画と展示が可能になる。しかしその両者の中間の横浜美術館では、どのようにフロアをうめていくのか、困窮しているかのような印象をいだいてしまう。

 

 

生きるということ -- 資本主義の原理とその虚しさ

父が入院した。

以前から、胃腸の調子がよろしくなかったらしく、しかしそれを放置していたらひどくなった。いよいよ我慢できなくて外科にかけつけたところ、「なんで、こんなになるまでほっておいたのだと」としかられたという。

そう日をおかずに外科手術することになった。本人は相当の緊張なのではなかったかと思う。そもそも麻酔というものがおそろしい。意識を強制的に奪うという激烈な効果を生むものであり、その仕組みもまったくわからない。そのようにしてねむっている間にお腹を切られるのであるから。

手術後はICUに入り、数日後には予定通りに病室に戻った。「痛い、痛い」とお腹に手を当てながらも、自力で動けるようになり、一階にある新聞の自動販売機まで歩いて、新聞を買えるようになった。

お金をお財布からだして、自動販売機に入れる。好みの新聞を選んでいボタンをおす。すると新聞が受け取り口にでてくる。このときはたと気がついてしまった。人間の営みって結局これだけのことなのではないかと。いやお金をかせぐフェイズがまったく欠落しているから、これが全てというよりは半分程度なのかもしれないが、お金を費やして利便性を得るということが、生きることの大部分をなしているのではないか。

そう考えるととてもむなしくなってしまった。消費をして時間をつぶすことが人生であると言われているようなきがしたからだ。資本主義社会に組み込まれているかぎり、そのシステムの一部でありつづける限り、この掟からのがれられないのだろうか。

人間の生きる意味を消費の中にとじこめるのだとしたら、やはり資本主義ってよくないのではないかと思う。別に経済が縮小しようともいいのではないかと思う。無理せずにしずかにシュリンクしながら、それでも一定の医療と福祉を保つ、そういう世の中であってほしい。

税金を払わないアマゾン

アマゾンは広範に日本で商売しながら、日本では税金をはらっていないとしばらく聞いたが本当だろうか。にわかに信じがたい。いくつもの流通倉庫を持ち幅広い商品を翌日配達できるアマゾン。無店舗販売により安値販売を可能に、既存の大規模店をことごとく経営危機におとしいれているアマゾン。そのアマゾンが税金をはらっていないとしたら、それが部分的であったとしても、驚くべきものです。

私は、できることならば税金を払って商売しているところから買いたい。黒字経営をし税金を払っているところからかいたい。無理な節税をしている会社や、帳簿上赤字にして課税をまぬがれている会社はごめんこうむる。結局そういう会社は、市場を破壊し、生活環境を破壊するフリーライダーなのであり、一面焼け野原になろうとも一向にかまわなず、そうなったらまた別の市場で稼げばいいやと、いう態度なのであるから。

 

えっ、まだアマゾン使ってるの? 情弱の告白。

いままであらゆる面でアマゾンにかなうものはないと信じ込んでいたのですが、気がついてみるとそうでもなくなっていました。

アマゾンが確実な優位をもっているのは、洋書。しかし和書ならば、他にいくつも選択肢があります。例えば、紀伊国屋。端末はsonyのものが使える。

電化製品や雑貨ならば、ヨドバシで大抵用がすみそう。

なんでもかんでもアマゾンに依存するのはちょっと怖いのでリスク分散してみようかと思います。

 

 

人が生まれてきた理由

森沢明夫さんのお話:

「人間はなんのために生まれてきたの? それはね、人にありがとうって言ってもらうためなんだよ。」

「悲しいお話で泣いてもらうのはわりと簡単だけど、自分のやりたいのは幸せな話で泣いてもらうこと。限りある人生の時間を使って読んでもらう人に、読んでよかったと、読んだあとなにか前向きになってもらえるようなものを書きたい。」

 

 

よい人生、よい時間とは・・・。

昔読んだ短編小説にこんなものがあった。登場人物たちに様々な災難がふりかかる。村人が突然神隠しにあったり、惨殺されたり、または二人の人物がばらばらにされてつなぎ合わされたりする。そうした惨事にあっても、その惨事の原因は自らの愚行にあるのではないかと内省し、ひたすらに、自らが生きている世界の神様の慈悲に感謝しつづける。最後に種明かしがなされる。登場人物達は実験室で飼育されているゴキブリであり、彼らの運命を定め惨事を起こす神とは実験を行う生物学者であった。

さて、ここで質問。最後まで感謝しつづけるゴキブリはおろかであったであろうか。おろかではないだろう。残された時間を感謝のうちに過ごすか、恐怖や憎しみのうちにすごすか、どちらかといえば前者が好ましいのは考えるまでもない。

もっとも、これはどうあがいても運命からのがれられないという状況があってのこと。ならばどうしようもない現実とはかえって幸福なのかもしれない。反対に自由な可能性は不幸の始まりなのであろうか?

おそらくは自由や可能性をもっとも期待値の高い方向で活かすのがよいのであろう。例えば大学受験をするとして、裏口入学をこころみるのはあまり賢い方法ではなかろう。受験テクニックに磨きをかけて合格をめざすのもよくない。将来にわたって必要な勉強をして、たとえ不合格であったとしてその勉強で身についた知識や、がんばったという充実が、その後の人生において活きてくるそうした取り組みがもっともよい生き方であるように思う。

どんな結果になろうとも、後悔しない一瞬一瞬が、今日も多くの人々に満ち満ちていますように。